簡単なことなのではないか?しかし、それに気づくのが、鳥の眼になって見るのが難しいのであって。パラレルタイム…とは、それによって人が変わるとは…。(他者による言語化による抽象化が鍵ではないのか)現在に至る道のりを変えることができるとは、人が記憶という力を獲得した時からすでに身につけていた能力なのだ。見方、見え方を過去現在未来において書き換えられる力を既に持っているのだ。しかしそこへ作用できるのは、最終的にはその肉体を持ったその個体自身。何故なら、生命活動自体を一つの出来事と捉えると、それはある一事象に過ぎないのであるから。

人々は天変地異や戦乱状態に一喜一憂している。しかし、もっと身近に、いやその人自体が天変地異、戦乱、紛争飢餓、殺戮の只中におり、その事に気づかずに混乱し、迷っているのだ。その解消も、一見その人の膜の外で起こっている事も同じとは言わないまでも出来事、事象としてはフラクタル的な視点からの構造においては、近似の関係にある。だから、低エントロピーから高エントロピーへと移りゆくその事象自体に正義か悪か、善か悪か、醜かか美か、良し悪しで判断することはできない。しかし、人間存在としての、法や規範道徳倫理に照らし合わせるのであれば、常に、その事象を読み解くアンテナを、実地に於いて、その事象の只中に於いてその事象でありつつよりセンシブルに働かせ磨き続けるるのが、ただただ今私がやっている事なのである。