「あなたには信仰が無い」「本を読みなさい」と言ったのは、それができる人たち、言葉を信じることができる人たち、コトバに身を委ねて納得できる人たちは、「三位一体は三つで一つなのであるこれは神秘である」というコトバに納得してそれを信じるということが、信仰でありそれに覚悟を決めて飛び込むことなのである。「赦しの秘蹟」において言葉をいただいたら、完全に許されたと感じることができる信仰である。パードレはキリストであり神なのである。これを本気で信じることができるのである。そういった劇に人生をかけている様にわたしには思える。

それならば、体感を求めたわたしは、彼らからしたら欲や現世利益を求めている、「信仰が無い」ものなのである。

だから、私からしたら、彼らは不自然であることによって何らかの視点の飛躍を身体的に起こそうとしているのである。欠落や欠落ゆえの渇望のエネルギーを発現させようというのか。

そういう彼らにとっては絶対的な神である方が都合が良い。

翻って、私にとってはヤオロズや全てに宿るアミニズムが都合良いのかな。