信仰について考える人

信仰する人とは祈る人のことなのではないか

修道院時代 生活の全てを 行動の所作全てを祈りにするにはどうしたら良いのか考えていた 先人たちは時課を唱えイエスの御名の祈りをしたりロザリオを唱えたりして一日を祈りで満たそうとした

わたしの生活は祈りになっているのか

いや祈りにしようとは思っていない

わたしはすることをわたしのものとしてしたい

特定の宗教の神に向けての祈りはもはや無くなった とりなしを願う聖人の祈りも遊び心程度に使うだけだ

このことはわたしのようにどっぷりと一つの宗教的生活に浸かったものにしか伝わらない感覚だ

とはいえ説明をする事ができる

どんな人も自身の政治的信条や生活の規範や行動のパターンがあるからだ

人間の身体を持っていると言う時点で祈りのような信仰のような状態にえてしてなるのである

それは記憶があるからで

原核細胞を取り込んだ真核細胞からなる細胞の集合体である身体という乗り物を皆有しているからであり

自分自身とそれを外側から見る自分がいるからで

同行二人とかイエスの足あとの挿話があったりする

信仰するとは孤独な作業だ

一人で生まれ一人で死ぬそもそも孤独である存在がその孤独と共に歩むために必要とするものなのかも知れない

とはいえ同じ信仰で括るというのは大雑把なのだ

そして信仰の先に召命がある

身体は一つなのに雑にいうと二つの自分がいて双方にズレが生じるのだ

そこで「自分に嘘をつきたくない」という人は悩む そもそも二人いるからだ わたしはもっと気楽に生きたい 混じり合った一つの身体がピュシスの中を浮遊しているような状態で

この身体の膜で皮膚でやんわりとぶつかり合いたい触れ合いたい夢でもいいから一つだと感じたい感じ合いたい

今のわたしはピュシスと繋がった状態を維持しようとしている わたしが変わらずにその中にある状態

祈ることには身体があればいい

宗教も政治も社会的枠組みも道具である

感情や思考が挟まれても構わない人や出来事や記憶が挟まれても構わない