人類は歴史の中で様々な能力を発達させてきた。集団を守るための暴力性、攻撃性、危機を察知する能力(不安になる能力)、

生殖方法とその能力、快楽を感じる能力、その派生としての遊びをする能力…全て生き延びるためにその力を後天的につけてきた。欲望も生き延びるための能力なのだ。

トウシツはキョウカイはきっとこの急速な文明化とそれによって形成された社会に身体がついてこないことによる何らかの体の歪みの現象なのだ。たぶん自然の中にいたならば俺はその能力をいかんなく発揮するのだろう。不安や危機感、強迫観念、全てを目標達成的に生きてしまおうとすること、愛着障害、かまちょ、愛情飢餓、解離…何で名前をつけてかかるのだろう。なぜ「何もしない。」が無くなり人ごとのみを考え、自然とのつながりが無くなってしまうのだろう。

そうあなたは本当に自然に生きようとしている。わたしはその野蛮さに惹かれているのだ。俺の野蛮さが野蛮な人を惹きつける。

何で小学5年の転校初日に、あのこを見て、全身に雷が落ちるようにして好きになったのだろう。あれは何だったのだ。容姿なのか?なぜ豪徳寺のあのことは身体がピッタリと合ったのだろう。なぜあなたが好きになったのだろう。あなたは何故「あなたに興味があります。」と2度メッセージをくれたのだろう。あなたはなぜ「早くわたしをここから連れ出してよ。」と言ったのだろう。そしてあなたはなぜその後、「わたしそんな事言ったっけ?」と言ったのだろう。そうだ、私たちは一日の中で生と死を繰り返している。生きながら過剰になったり、生きるがままを生きたり、限りなく死に近づいて生きようとしている。

身体のことはよく覚えている。夢の中の体感もよく覚えている。ふにゃちんになるのもうなずける。欲望も生き延びるための能力なのだ。だから、宗教も所詮人ごとしか語っていない。人ごとを神話や現実に起こりえぬ力などの虚構によって多くの人を動かす倍化の装置の一つなのだ。言葉という道具、宗教という道具、火という道具、歌という道具、資本主義という道具、共産主義という道具…身体と結びついた道具(思考の枠組み、詩、言語、祈り、典礼、スポーツ、体操、音楽、踊り、セックス、歌、フリースタイルバトル、ポエトリーリーディング…)おそらく我々には直接的な触れ合いが必要なのだ。身体と身体で会うこと、身体と直結した道具にこそ目を向けてみよう。

この世界に適合してお金をたくさん稼ぐこと、それは自らの集団を繁栄させ生きながらえさせることにつながることなのだから、きっと副次的な生存戦略であるのだろう。

わたしはこの時間性の中で現在の世界の中でどのように私の身体を生きながらえさせることができるのだろう。何でもできる。いかようにもできる。わたしは生き物として生まれたからには生き物としていかに生き延びていくかをこれからの指針にしていく。「死ぬまで生きて死ぬこと。」「野垂れ死ぬこと。」何となく思っていたが、やはり間違っていなかった。指針というと大袈裟ではあるが、考える脳みそを持っているのだからそれを使ってみる程度のことなのだ。

ちっぽけではあるけれども、今はソロであるけれども、とにかく生きることを生きるのだ。生き物として生き延びることに向かってすることをし、必要最小限の道具でこれにあたるのだ。遊びながら。そこにいるということをしながら。ゆるく集中と弛緩を繰り返しながら。生き物としては凛と立ちながら。歩くことをし、呼吸し、寝て、食べて起きて、触れ合いながら。

 

アミニズムって言われた。そうかぁ俺ってアミニストだったんだ♪