宗教…その他について

特定の宗教を信じていない

より良く生きるために必要な人はそれがあったらいい

私は無くていい

とはいえ、大勢の人が混沌とした塊のようになり、それでいてそれぞれ一人一人が願いを持って沐浴したり声を上げてエモーショナルに祈るインドの人たちの姿を見ていると、宗教はあっていいと思う。むしろこの人たちにとっては、生活と深く密着してて無くてはならないものなのだと思わざるを得ない。社会的構造的にある不条理や貧困(という言葉は好きではないが)の中において生きるには必要不可欠なものなのではないのか。(この言い方も何だか違和感あるな)

ふと浮かんだ…人には歌うこと踊ることが必要だと思う。そういった言葉によらないもの(絵や音楽などもあるのかも)と、社会や生活との親和性をもたせて生きるバランスをとるもの(道具)が宗教なのではないか。

いや、それよりも更に進んで、効果的効率的目的的計画的意味的…でないものことが宗教の中にあるのではないのだろうか。本来的に人にはそういった時間や空間が必要なのだ。きっと。何となくそう思う。

ではスピなんてまっぴらごめんだし宗教を必要としない私は、何によってそういった「効果的効率的目的的計画的意味的…でないもの」(そういった時間や空間)を私の身体に搭載しているのだろう。死ぬまで生きて、死ぬにはどうするのだろう。

それが「散歩」なのだろう。ある人にとっては「猫」なのだろう。ボクのボケーっとした時間なのだろう。そうやってヒトリキリになって世界と繋がる瞬間なのだろう。これはゆずらない。ゆずりたくない。わたしのものだ。まぁわたしという存在もほんの小さな光の明滅のようなものでたわいもない出来事、事象だ。本来的に無意味で非効果的で非効率的で無目的で無計画なものなのだ。まぁエンジョイしていこう。(でも、言葉も論理も大事にするよ。学び続けて考え続けるよ。その上で感じるんだ。だって〈あなた〉に気持ちを伝えるのはそれしかないのだから。)あぁ俺ってマージナリィ♪

決して私が一人で生きられるなんて思ってないよ。そうやって進んだ果てに〈あなた〉と会いたい。とはいえ生きてる間にすごく会いたいけど、そこに向かって進んでいれば会えなくても悔いはない。悟らなくていい悟る必要もないそもそも悟ることなんてないということを悟っている。なんとなくね