なぜ宮台がチェスタトン

カトリック信徒であることを表明しているのか

彼等が神の存在を信じているか否かは、さしたる問題ではない

まず、自身が神にならないためである

わたしは神では無いですよということを態度で表明している。

そして、普遍宗教に所属することで世界における自らの位置が固定され、他者との議論の場を立ち上げやすくなることである。

また、普遍宗教はそこに人類の多くの割合の信徒を有していることから影響力もあり、世界における多くの他者からも知られているからである。

彼等のような表に立つ人は自分の影響力や社会における自己の存在の意味を理解しているのだ。世界における自己の役割を認識し、今後の生を人類への啓蒙啓発に捧げて生きていくということの覚悟を感じる。

 

坂口恭平もそうだ。彼は自己の宗教などなくそれを表明しない。しかし、自らが生きていることを示して、皆が死なないための活動をしている。周りから散々キリストだ仏陀空海だと言われているが、「一人でやっていく。」と言っている。

ギブアンドテイクは普通だ。それで救われて生きていける人もいる。

しかし多くはここに留まり、不全感を抱え、ゆっくりとゾンビ化して生きている。

 

ギブアンドギブアンドギブが必要だ。少し楽になるし、人はここにいるのがいいと思う。ゴリラはすでにこれをしている。だが、ほぼ全ての人がそこまでにいくことができない。人間はみんな一人だ。しかし認識の上での自己の存在は他者と混ざり合って存在している。それが神なのか愛なのかなどの呼び名はどうでもいい。どうしたらこの状態になれるのか。お互いがこのことを感じながら生きることができるのか。このためには、何もいらない。人と人とがいれば良い。ただそれだけのことであり、それだけのことに遠く手が届かず、こうならずにいる。

 

当のわたしも未だ未熟である。痛烈な孤独に苛まれている。SNSにサブスクに酒に煙草にセックスに溺れ気を紛らわしている。思考し前進することから逃げている。自らが不幸だと思い込み不貞腐れ、誰かに慰めてもらいたいと、同情を誘うように待っている。あぁなんて卑屈なんだ。未だどこへも踏み出さず踏み出せずにいる。自己の固い硬い堅い殻に閉じ籠もって身動きがとれないでいる。もはやゾンビだ。何も作っていない(そんなことは無いのもわかっちゃいるが)。わたしは容易に現実を逃避できる。てか、なってる気づくとしている。全欲望を満たしたいが故に何もする気が起こらない。これといってやりたい事が無い。きっとちょい鬱で随分と皆からズレているのだろう。孤独だ孤独だ孤独だ。ほとんどの人に話が通じない。そう、この卑屈なマインドだ。誰かにしてもらおうとしか思っていない。世界に偶然に何かを持ってきてもらう、訪れてくれるのを待つことしかしていない。棚ぼたをを狙っているのだ。自らは何もすることなく。

あぁとはいえ、こんな話を聞いてくれる友人が僅かながらでもいることに、感謝しよう。

分かりあう事なんて無いのだ。夫婦もそもそも他人だ。相手を自分にしようなんて、自分の考えで染めようなんて傲慢だ。

普遍的な愛を説こうなんてこれっぽっちも思っちゃいない。俺を幸せにするのは俺だ。俺は決めたのだ、死ぬまで生きて死ぬと。自らの生を命を魂を燃やし尽くし使い尽くそうと。だらしなくカッコ悪く愚かに生きて死ぬのだ。

いう必要のないことを言わないでいるということを学び、言いたいことは文字にして書いていこう。誰に宛ててでもなく。でも、適切な言葉で読んだ人にそのまま伝わるように。不貞腐れて、ひねくれて、斜に構えて生きようなんて思っちゃいない。バカで愚鈍でいられることには感謝だ。バランスだ。

 

そうだ。俺は何を満たしたいのだろう。

そのことを考えよう。何が欲しいのだ。そして、何がしたいのであろう。何がしたくないのだろう。