もう誰かのせいにしない

でも、腹が立ったら誰かのせいにして酒飲んでくだまいて終わり

あなたと離れた場所にいる

でもそんなことは関係ない

あなたと全く違う社会的立場で生きている

あなたはあなたの仲間たちの中で誰よりもその

集団の主張する生活を生きている

誰よりも悩んでそれを表向き実現している

あなたはあなたがしたいことを

もうすでにやっている

苦しんでそれを続けてもいい

苦しまないでそれを続けてもいい

そこから飛び出してもいい

誰かに責任を感じなくてもいい

そんなことから全て逃れ

資本主義に国家に政治信条に流されず

わいわい楽しく生きていきたいのでしょ

あなたは自分は苦しんで生きねばならないという思い込みに囚われている

でも、それを捨てろなんて言わない

やってることは俺と一緒だよ

たぶん

寂しい寂しいって言っているけど

言い換えれば

誰かと繋がりたい

私自身が本当に繋がりたいと思う人と繋がっていたいということだ

禁煙したい健康になりたい足を治したいそう思って生きていたら勝手に海外へ行くことになっていた

かなり私的なわがままを貫いたらそうなった

私の身体は生き延びたかったのだろう

あなたと出会ってもなお

繋がりたい本当に繋がりたいと思う人を探そうとしている

まぁ遊びのようなものだ

遊ぶなら本気で遊べ

あっ私が本気で遊びたいジャンルがある

私は今それをしている

あなたは鋭いからすべての人々のあなたの界隈の人たちの欺瞞や誰かの何かのせいにしているということを見透かしてしまう

そこを押さえずに乱痴気騒ぎをしたり茶化すような活動をしている人たちに少し腹が立つ

その集団に完全に馴染めないことにどこまでも寂しさを感じる

だからその共同体に属しながらもそこから少し離れた場所で全体を見て、その取りこぼしの部分を自らが抱え込むと共にあなたはあなたで責任感があるからさらに一石を投じて敢えてその場をかき乱すより自由とはより平等とはより互いに認め合うとはということをみんなが考えるような行動をするそこから同様に弾き出された人と寄り添おうとするはたからみると愚かにも映る行動を敢えて行う。サークルクラッシャーにも近いことをする。でも結局あなたはそれを行うことによる苦しみや痛みは全部自分で背負い込む。あなたが辛くて苦しくて寂しいというのが私には痛いほどわかる。

あなたはまるでPさんのようだ

その取りこぼしに気がついてあなたは一人でそれを抱え込んでなんとかしようとする

それは楽なことではなく苦しみを伴う

あなたは自分は幸せになってはいけない自分は苦しまねばならないという思い込みに苦しむことを課せられている人生だという思い込みに囚われているふしがある。私もその傾向があるからわかるんだ。でもそれはあなた自身が選んでそうしている。あなたは博愛だ。それらを全て(気がついているのはあなただけだから)自分で背負い込もうとしている。

あなたは真面目すぎる。

だから私は幸せになろうと考えることをやめた。何かを目的的に達成しようとか、何かに向かって生きることをやめた。誰かのために何かのために生きようとすることをやめた。私はそこから逃げたのかも知れない。

 

さすがあなただよ。ありがとう、ごめんなさいはいらないと言う。そう言ってくれるのはあなたと数人の友人くらいだ。

そもそも「ありがとう」「ごめんなさい」と言いましょうなんて、日本人を縛る悪どい宗教のようなものだ。一度そのような観念縛り思い込みから離れた場所に立って初めてその意味を知ることなのだ。それを使うか使わないかを選ぶものなのだ。本来そんなもの無しに人間はもっと楽しく生きることができる。

そもそも「ありがとう」「ごめんなさい」を言いましょうなんて、いつどこで作られたものなのだろう。奥野先生に聞いてみたい。