私には

おかしな才能がある

知りたくなってしまう

それも減ってきた

忘れるようにもなってしまった

というか限られてきた

引き合った会った人と

そうする

 

有限と

有限の中で生まれる無限を

思い知るからだ

一つ一つが大きい

パートナー、一緒に暮らす人、結婚、ツレ、相方、好きピ、友だち、好きな人、身体を重ねる人、セックスが好きな人、セックスをする人、セックスをしたい人、愛する人、話をしたい人、一緒に何かをしてその感想を共有したい人…いくつかをまとめて考えるからややこしくなる。いくつかをまとめて考えるしかなくもある。それに名前を付けて共有したり納得するし合うこともできる。話し合いをして、関係性に名前を付けたり考えたりする。それも仮の話だし、その間も絶えず互いが変化していく。だから、関係性に名前を付けられないというのが正しい答えなのだろう。確認でもなく何気なくいつも互いに話したい時に話してそうじゃ無い時は互いに少し離れて時にはテレも生じるけど結局いつも腹を割って話して喧嘩して何となく一緒にいるを続けられるようなそんな関係性が見つかるといいなぁ

 

何か引っかかるのが、いつもよくあることで、「生理的に合わない」で片付けられることだ。一緒にいる相手から「何だか楽しそうでいいわね。」「あなたは怖い。」「あなたは1人で大丈夫。」私にはまだ何らかのコンプレックスがあるのだと思う。わかった気になって済ませようとする、心の驕りがあるのだと思う。カッコよくするや清潔感を持たせるよりも、生活を維持する身体を維持することを優先させている。だから自分でしていることだ。

知って欲しいのだ。これでも一生懸命やっている。満身創痍だ。楽をしているわけではない。自分さえ良ければいいなんて考えていない。自分は生き延びるは、当たり前のこととして実装している。だから一緒にいる人と誰よりも何よりも楽しくいたい。一緒にいる人のためなら私にできることなら何だってする。見返りなんてほとんど求めていない。そんな気持ちでいるのに。わかってもらえないのだ。あなたは何を考えているのかわからない。あなたはまだまだ私たちより元気だ。私たちはあなたよりも疲れている。疲弊している。私たちはあなたのように強くは無い。あなたはいいよね。あなたに私はいらない。わたしはあなたよりももっと弱い人に必要とされている。こう言われ続けてきた。ありがたくもあり、こんなに辛い事はない。私はもう何もしたくない、そう思ってしまう。でも確かにまだまだ先に進めるし状況が動き出している。それならばまだまだ行くことができるということだ。確かにあなたたちの言う通りだ。

 

まずは何もかもを取っ払って話し合いをできる関係性を持ちたいものだ

肩書きの仮面、それを被ることの苦しさ、それを被ることの楽さ、わたしはわたしであり、わたしはSNS上のわたしである。

ここもわたし自身の日記であるが他者の個人名は上げない。

いろいろなことがもはやそのままにどうでもいい。しかし会う人と機械のように接しているのでもないし、単なる反射でもない。ニュートラルでいようとはしている。わたしであろうとしている。カッコつけはしまい。人を批判したり否定したりもしない。わたしが存在することをし、その結果起こる事は受け入れる。わたしを奪ってくれる人を探している。あぁなんて受け身なんだわたしは。少し利用されてぶつくさ言うなオレ。それもこれも大したことでは無いのだ。そして、こうしている方が私の物事も強く濃く進んで行っているように感じる。あとは安眠と安楽と散歩と誰かといる充足と肌を触れ合う暖かさとまだ見ぬ世界が広がる会話と気のしれた仲間と友だちと家でゴロゴロと時々誰かと出掛けて感想を言い合う時間と…そんなこんなが程よくあって何にも心配しないでできることをしてできない事は助けてもらって生きて死ねたらなぁ